粟島は、荘内半島の沖にあるスクリュー形の島
三豊市の詫間町沖にあるこの島。島の形がスクリューに似ているといわれており、島の歴史も海事に深く関わっています。
須田渡船場待合所の建物です。白いロープは、海事に関わる仕事をしているという意味のデザインだと思います。正面が事務所。左の建物が切符売場と待合所です。
港には、島に渡る人用の無料駐車場があります。秋の瀬戸芸期間中は、かなり込み合うのでは。
待合所にある自動券売機です。粟島港までは、大人330円でした。かなり航路が複雑で、帰りはここではなく詫間支所近くの宮下港に着く便もあるので、往復切符はありません。
この須田港からは、粟島港ともう一つの粟島の港である上新田港に行けます。午前10時45分発に乗りました。
待合所には、粟島にある漂流郵便局の資料も展示されていました。今回の旅の一つの柱です。
券売機からは、こんな乗船券が出てきます。
港から目的地の粟島がはっきり見えます。時間にして15分くらいの船旅です。
この、みとよ号に乗ります。
船内は、こんな感じです。かなり静かで、快適でした。
船着場では、釣りをする人も。この辺りは、投げ釣りでキスを狙う人が多いようですが、この方は、チヌでしょうか。
あっという間に粟島に到着
粟島港に着くと、スタッフは結構忙しい。軽トラックの荷台いっぱいの生ビールの樽を船から降ろしたところ。
ここから、同じ粟島のもう一つの港である上新田港に行くには、船を乗り換えます。上新田には民宿や海水浴場もあるらしく、夏休みの家族連れもいました。
右が、上新田港に行く船、左が今乗ってきた船で、ここから詫間町の宮下港に行けます。島の人たちがたくさん乗り込みます。
出てきました。アートの島らしく、手作り感がなごむウエルカムメッセージです。
今日、行きたい目的地の案内板が。
漂流郵便局の案内板もありました。
港にあった島の全体図です。確かに、スクリューの形に似てるといえば似ています。
島の散策スタートです。
向こう側が、本当の郵便局、手前がJAです。
こんな、路地もどんどん進んで行きます。
昔、どこにでもあったよろずや兼お菓子やです。ここの呼び名は、島コンらしいです、島のコンビニという意味でしょうか。
畑にも、趣向を凝らした作品が並んでいます。
作品の材料は、ほとんどが島ならではのリサイクルのようです。
ありました。漂流郵便局。しかし、なんと開局するのは、第2、第4土曜日の午後のみでした。今日は、無人のようです。
元中学校で瀬戸芸の作品作り中
元粟島中学校の施設です。なんと、2016年まで稼動していたということですから、それほど昔ではありません。この校舎は、かなり歴史があり、ある意味、ここで学べた子供たちは幸せかも知れません。
瀬戸芸の作品制作場所だったこの施設を行政の事業として、継続していき、芸術家の日比野さんが校長となっているようです。この施設では、訪れた日にも、インド人の方が、秋会期の作品作りに取り組んでいました。説明していただいた、地元のスタッフの方も、夜遅くまで支援しているとのことで、地元の積極的な協力が継続しているようです。残念ですが、製作風景は、一切写真撮影はできませんでした。そりゃそうです。
少し離れた高台にある元小学校の施設です。ここは、全く使われていませんでした。
元幼稚園の施設です。小学校はともかく、幼稚園などが閉鎖されるということは、若い世代がもういないということでしょうか。
島で最高峰の城山(じょうのやま)の展望台を目指す。
小学校の敷地の側の道を登り始めます。
段々道が細くなります。この暑い中、登る人はいないのでしょう。全く足跡はありません。
かなり登ったなと思っていたら、目の前に現れたのは1合目の標識でした。この後、3合目までは登りましたが、そこで断念。もし、この暑さの中、ここで倒れたら、長時間発見されない可能性があり、迷惑をかけると判断しました。後で、下から、全体像を見て、本腰で来ないと登れないなと確信。もっと、早く判断しろよ。
頂上の展望台までは、かなりの距離があります。1合目は、多分下のオレンジの矢印付近ではと。冬に再度、展望台を目指して挑戦する予定です。また、宿題ができました。
ル・ポール粟島のレストランへ
山から下りてきたら、もう昼時でした。宿泊施設でもあるル・ポール粟島のレストランにおじゃますることにしました。
敷地内の庭園も広くきれいに整備されています。それにしても、この百日紅の木は立派でした。
施設の中はこんな感じです。階段の奥に、レストランがあります。
この日の日替わり定食は、サワラの照り焼きでした。迷わずこれにしました。
レストランの中はこんな様子です。食堂ぽいですけど、それが、かえって安心します。近くで工事をしている方もおられました。そういう雰囲気が好きです。
これで、750円です。いいでしょうー
しかも、食後のコーヒー付きです。ごちそうさまでした。
この旅のもう一つの柱。粟島海員学校跡
大正9年に建築された木造2階建ての校舎跡です。99年前。来年は築後100周年です。粟島海員学校は、明治30年に開校。当時の外洋で活躍する汽船の乗り組員を輩出すべき設立された、地方海員学校の第1号でした。ここで学んだ多くの学生は、厳しい訓練を成し遂げたのでしょう。海で自分の命を守るのは自分しかいないことを、徹底的に叩き込まれたと思います。すぐ目の前に荘内半島でつながる四国があっても、この島の厳しい訓練から逃げることはできなかった。それは、自分の夢を自分で握りつぶすことだから。その後の昭和の時代には、海運不況があり、日本人の海員の需要は低調になったことで、国内の海員学校が順次整理されました。この学校も、昭和62年に廃校に。その後、記念館として建物が保存されています。
屋根瓦や壁のペンキは、多分、その都度修繕されてきたのでしょう。海沿いの建物の保存は、大変です。
玄関を入った所に校名の板が。開校当初のものでしょうか。
1階の展示室には、この学校の歴史と卒業生の活躍ぶりが紹介されています。
1階の廊下です。歩くだけで、ここで生活した生徒たちの息苦しいような圧迫感を感じます。
教室の設えも昔のままです。
2階の講堂に上がりました。
ここで、様々な礼式が行われたのでしょう。
生徒たちは、この窓から海を見ながら何を思っていたのでしょうか。
あきらめていた漂流郵便局に
通常は、閉館日ですが、この日、団体客を案内する計画があったようで、道でばったり郵便局長さんにあったら、「今、開けたから自由に見ていいよ。」と見学を快諾していただき、この団体さんが来られる前に、漂流郵便局に赴くことに。
再び、建物の前に立つと、中の照明がついているではありませんか。
建物の中から見ると、利用客は右の入り口から入って来ます。
これが、漂流郵便物です。棚にびっしり積まれていました。右の飾りボックスの中にも入っています。
こんな感じです。この漂流郵便局は、「いつかの、どこかの、誰かに送る手紙」というコンセプトです。それは、昔の淡い恋の手紙もあるだろうし、在りし日の愛しい人への手紙、自分の人生に刺激を受けた人や悔しかった相手、謝罪や相手を許せない手紙もあるかもしれません。相手が分かっていても直接は、手紙を出せない。それでも、自分の気持ちを文字にし、手紙という形で投函して、一つのけじめをつけたいと思った手紙もあるのだろうと思います。この棚の手紙自体も拝見できるようですが、このフロアの重い圧迫感にただの1枚も手にすることはできませんでした。それほどに、思いつめた感情が交錯している雰囲気を感じました。ただ、そんな思いを受け止めてくれるこの漂流郵便局の存在は、稀有なものには違いありません。
漂流郵便局の紹介リーフレットです。
まだまだ、行きたい所がいっぱい
暑さで疲れてきたこともあり、残りの時間は、レンタサイクルを利用して走りました。このブリキ壁の大口しま子さんの口に穴が開いていて、そこにセルフで500円を入れて借ります。千円札だったので、港まで両替に行きました。
帰りの船には、さっきの団体さんも乗船したため満員状態でした。朝の風景と比べるとちょっとびっくり。
須田港では、かもめが出迎えてくれました。お疲れ様。
粟島は、今回訪れるまでは、のんびりした時間を楽しめる島だろうと思っていましたが、違った顔を複数持っている島で、関わった人たちの様々な重い思いが、静かに海と時間の経過を見つめているようでした。
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